フルカワユタカ 岡山PEPPERLAND

加速する世界を、ギターで弾き直す
——フルカワユタカ、加速と共鳴が交錯する「絶景」

能勢伊勢雄(岡山PEPPERLAND主宰)

●ロックスターが、ギター一本で立つとき

フルカワユタカの音楽を考えるうえで興味深いのは、ギターを中心とするロックの攻撃性と、クラブ・ミュージックが持つ身体的な快楽を、長年にわたって一つの表現のなかで成立させてきたことである。DOPING PANDAのフロントマンとして「ロックスター」を名乗りながら、その音楽には、ギターを聴かせるだけでは満足しない、観客の身体そのものを動かそうとする強い意志があった。

2026年10月30日、岡山PEPPERLANDで開催される公演は、全国ツアー「絶景」の弾き語り編である。バンドによるダンス・ロックを成立させてきたミュージシャンが、今度はギターと自らの声を中心に舞台へ立つ。この変化は、単に演奏の規模を小さくすることではない。ベースやドラム、電子音に支えられていた音楽から、それらを取り除いたとき、楽曲の何が残るのか。そこには、フルカワの音楽の本質を考える重要な問題がある。

フルカワは1997年にDOPING PANDAを結成し、2005年にメジャーデビューを果たした。2012年の解散後、2013年からソロ活動を本格化させ、2022年にはDOPING PANDAを再結成している。バンドとソロという二つの活動は、現在では互いを否定するものではなく、それぞれ異なる音楽的な可能性を探る場となっている。

その軌跡を辿ると、フルカワにとって重要だったのは、特定の音楽ジャンルを守り続けることではなく、ギターという楽器を通じて、ロックの身体性とポップスの旋律、電子音楽の構築性をどのように結びつけるかという問題だったことが見えてくる。

●メロディック・パンクから、ダンス・ロックの発明へ

DOPING PANDAは、結成当初、1990年代の日本のパンクやメロディック・ハードコアのシーンに近いところで活動していた。2000年にDIWPHALANXから最初のシングル「Dream Is Not Over」を発表し、2002年の「PINK PaNK」、2004年の「WE IN MUSIC」を経て、2005年の「High Fidelity」でメジャーデビューしている。

この時代の日本のロックでは、HUSKING BEEやSCAFULL KING、LOW IQ 01らが、パンクの速度や身体的な強度を保持しながら、メロディ、スカ、ファンクなどの要素を取り込んでいた。DOPING PANDAもその環境から登場したが、彼らはさらにダンス・ミュージックの方向へ踏み込んでいく。

重要なのは、ロックの演奏を電子音楽へ置き換えたのではないことである。ギター、ベース、ドラムという基本的な編成を保持しながら、その内部へクラブ・ミュージックの反復やシンコペーション、電子的に構築されたビートの感覚を持ち込んだ。ギターは単に和音を鳴らす楽器ではなく、細かなカッティングによってリズムを作り出す役割を担う。

2006年の「DANDYISM」から2007年の「High Brid」、2008年の「Dopamaniacs」へと至る時期、DOPING PANDAは、ロックバンドがダンスフロアの時間感覚を獲得すると何が起こるのかを追究していた。そこでは、観客が演奏を見つめることと、その音楽によって身体を動かすことが同時に成立していたのである。

●PrinceからNew Orderへ――ギターがビートを作る

フルカワの音楽的な背景には、ハードロックとクラブ・ミュージックという、異なる二つの歴史がある。2006年の「bounce」誌のインタビューで、本人は高校時代にハードロックやヘヴィメタルから楽器を始めたことを語り、その華やかな演奏表現と、クラブ・ミュージックが持つ匿名的な性格が結びついたところに、DOPING PANDAの独自性が生まれたと述べている。

この関係を考えるうえで、まずPrinceが思い浮かぶ。Princeにとってギターは、ロックの技巧を誇示する楽器であると同時に、ファンクのリズムを作るための重要な装置でもあった。Nile RodgersがChicで発展させたカッティングも同様である。短く刻まれるギターの音は、旋律を演奏する以前に、身体を動かすための拍動を作り出している。

英国のNew Orderも、別の方向から重要な比較対象となる。Joy Divisionのポスト・パンクを受け継ぎながら、シンセサイザーやシーケンサーを取り込み、ロックの陰影とダンス・ミュージックの反復を結びつけた。さらに2000年代には、Franz FerdinandやBloc Partyが、Gang of Fourなどのポスト・パンクを再解釈し、鋭いギターとダンサブルなリズムを両立させていた。

DOPING PANDAもこうした国際的な音楽の変化と同時代に活動したが、その特徴は、クラブ・ミュージックへ接近しながらも、フルカワがギタリストとしての存在感を手放さなかったことにある。

2018年、BRIAN SHINSEKAIとの対談では、フルカワのギターにNile Rodgersを思わせるカッティングを求めた経緯が語られ、同時にVan HalenやPrinceに通じるギターヒーロー的な存在感も指摘されていた。技巧を前面に出すギタリストと、反復するリズムの一部として機能するギタリスト。この二つの性格が、一人の演奏者の内部で結びついているのである。

●数学的な構築と、ロックスターの過剰さ

2008年、音楽評論家・古川琢也は「rockin'on.com」におけるDOPING PANDAの「beautiful survivor」評で、その音楽の数学的な構築性と、ロックスターとしての過剰な自己表現という二面性を指摘している。リズム、ギターの入り方、歌の配置が精密に設計されている一方、フルカワ自身は舞台の中心に立ち、観客を強く引きつけようとする。

これは興味深い対立である。電子音楽では、一定のリズムや音の反復によって、個々の演奏者の存在が後退する場合がある。しかしロックでは、ギタリストやヴォーカリストの個性が、音楽の中心に置かれることが多い。

フルカワは、この二つの原理を対立させなかった。精密に構築されたリズムのなかで、ギターを弾く身体が強く現れ、楽曲が緻密であればあるほど、演奏者の過剰な表現が際立つ。その関係が、DOPING PANDAの音楽を単なるダンス・ロックの流行から区別していたのである。

ここで「DANDYISM」という作品名も重要になる。フルカワは当時のインタビューで、流行に合わせるのではなく、自分が正しいと思う格好よさを貫く姿勢として、ダンディズムを捉えていた。ロックスターという自己演出も、単に目立つためのものではない。自分の美意識を舞台上の演奏として成立させるための方法だった。

●「MIRACLE」――ギター・ロックをダンスへ解き放つ

DOPING PANDAの音楽的な転換を象徴するのが、2006年2月8日に発売されたシングル「MIRACLE」である。メジャーデビュー後の最初のシングルとなったこの作品は、ギター・ロックがクラブ・ミュージックの構造を獲得していく過程を、鮮明に示していた。

その特徴は、反復するビートとギターのカッティング、明快なメロディ、そして一気に高揚するヴォーカルが、互いを妨げることなく結びついている点である。ロックのギターが持つ瞬発的な力を保持しながら、曲全体にはダンス・ミュージックの持続する時間が流れている。リズムは楽曲を前進させるだけではなく、繰り返されることによって聴き手の身体を音楽の内部へ引き込んでいく。

歌詞では、未来、光と闇、失うことへの恐れ、そして困難な愛が語られる。ここでいう奇跡とは、何もしなくても訪れる幸福ではない。暗闇を知りながら、それでも未来へ向かい、自分と他者との関係を失わないように進み続ける意志として描かれている。音楽が高揚していくほど、その言葉は個人的な感情から、観客の身体へ直接働きかけるものへと変化する。

さらに興味深いのは、シングルに英国のBodyrockersによる「TOKYO PUSSY MIX」と、PlaygroupことTrevor Jacksonによるリミックスが収録されていたことである。Trevor Jacksonは英国のポスト・パンクやディスコ、エレクトロの歴史を再編集してきた音楽家であり、Bodyrockersはギターを使ったエレクトロ・ハウスで注目されていた。この二つのリミックスを収録したことは、DOPING PANDAが自分たちの楽曲をロックの枠内だけで完結させず、クラブの音響としても成立させようとしていたことを示している。

重要なのは、完成された楽曲が一つの固定した姿を持つ必要はないということである。同じメロディや声、ギターの断片であっても、ビートの配置や音響処理によって、聴き手が経験する時間は変化する。「MIRACLE」はロックとクラブ・ミュージックを接続する楽曲であると同時に、後のフルカワが追究する、音楽を何度でも組み直すという方法の出発点にもなったのである。

●「無限大ダンスタイム」――ロックの時間が解体される瞬間

そしてDOPING PANDAのライヴを語るうえで欠かせないのが、伝説的な「無限大ダンスタイム」である。これは単なる楽曲名ではない。複数のダンス・ロックを間断なくつなぎ、一つの巨大な音楽的な流れとして演奏する、DOPING PANDA独自のライヴ構成であった。

2008年7月18日、東京のJCBホールで開催された「Tour'08 Dopamaniacs」のファイナル公演は、その象徴的な出来事となった。三か月に及ぶツアーの集大成となったこの夜、後半に30分以上の「無限大ダンスタイム」が組み込まれた。サイレンのような警告音と機械的な声による開始の合図に続き、「The Fire」から「YA-YA」「Hi-Fi」「I'll be there」「call my name」「Transient Happiness」「beautiful survivor」「MIRACLE」、そして「Crazy」へと、9曲が休みなく演奏された。

ここで起こったのは、単に速い曲を続けて演奏することではなかった。通常のロック・ライヴでは、一曲が終わるたびに拍手やMCが入り、聴き手の時間はそこで区切られる。しかし「無限大ダンスタイム」では、その区切りが取り払われる。曲は変わっても身体の運動は続き、前の曲が生み出した興奮が、次の曲へそのまま持ち越されていく。一曲ごとの時間が連続した一つの時間へ変化するのである。

この構造は、クラブのDJが複数のレコードを接続し、ダンスフロアの運動を途切れさせない方法に近い。しかしDOPING PANDAでは、それをギター、ベース、ドラムの三人が生演奏によって実現している。電子的に構築されたリズムの精密さを、生身の演奏者たちが共有し、観客の反応によって演奏の強度を高めていく。そこにはDJの時間操作と、ロック・バンドの身体性が同時に存在していた。

2008年の公演を記録したDVD「無限大 DANCE LIVE from Tour'08 “Dopamaniacs”」では、この構成が映像として残されている。また、同年10月の日比谷野外大音楽堂での公演でも、「infinite dance」から始まる一連の楽曲がノンストップで演奏され、終盤には「MIRACLE」が配置された。ここで「MIRACLE」は単独のヒット曲ではなく、持続する音楽的な高揚を一つの頂点へ導く役割を担っている。

興味深いのは、フルカワがロックスターとして観客を支配するだけでは、この構成は成立しないことである。演奏者がどれほど緻密に楽曲を配置しても、観客の身体が反応しなければ「無限大」の時間は生まれない。逆に、観客の興奮が演奏者をさらに駆り立てることで、予定された楽曲の連続が、その夜にしか起こり得ない出来事へ変わる。音楽の時間を設計することと、設計された時間が演奏者自身の予想を越えていくこと。その両方が「無限大ダンスタイム」の核心なのである。

●ニック・ランド――加速するのは、音楽だけではない

ここで、1990年代の英国でニック・ランドが展開した「加速主義」という思想を参照したい。ランドは、資本主義とテクノロジーが相互に発展し、人間の社会や生活を急速に変化させていく過程を、単なる進歩としてではなく、人間の制御を越えて自律的に加速するシステムとして捉えた。1994年に発表された講演「Meltdown」は、こうした思想を象徴する文章であり、サイバネティクス、資本、情報、機械、都市を一つの巨大な変容過程として描き出している。

ランドの加速主義で重要なのは、単に速度を上げるということではない。技術革新が経済活動を変え、その経済活動がさらに新しい技術を要求する。情報の流通が速くなれば、社会の変化も速くなり、人間はその変化に追いつくために自らの生活まで加速させる。ここでは、人間が技術を使っているだけではなく、技術と資本の運動によって人間自身が変えられていくのである。

1990年代、ランドはウォーリック大学を拠点としたCCRU(Cybernetic Culture Research Unit)に関わり、セイディ・プラント、マーク・フィッシャー、スティーヴ・グッドマンらと、哲学、コンピューター、SF、テクノ、ジャングル、レイヴ・カルチャーを横断する実験的な議論を展開した。彼らはクラブ・ミュージックを単なる若者の娯楽として扱わなかった。電子音によって人間の時間感覚や身体が変化することに、未来の社会を読み解く手掛かりを見いだしていたのである。

もっとも、ランドの思想はその後、資本主義の加速を積極的に肯定する方向や、反民主主義的な政治思想へと展開していった。その政治的な立場と、CCRUが電子音楽を通じて探究した技術と身体の問題は区別する必要がある。ここで参照したいのは加速主義への賛同ではなく、機械的な反復が人間の身体と時間に何を引き起こすのかという問いである。

DOPING PANDAの「無限大ダンスタイム」は、この問題を音楽の側から考える興味深い対象となる。楽曲が途切れず、リズムの反復が観客を次の運動へ向かわせ、演奏者もその興奮に巻き込まれていく。しかし、それはランドの資本主義論を直接音楽化したものではない。技術的に設計された反復が、人間の身体を通過することで予測できない強度を獲得していく。その過程に、機械と人間の時間が交錯する瞬間を見ることができるのである。

●ジャマイカのダブからOn-U Soundへ――音で空間を作る

この問題をさらに考えるためには、電子的なダンス・ミュージックのもう一つの重要な源流である、ジャマイカのダブへ遡る必要がある。

1960年代末から1970年代のジャマイカでは、King TubbyやLee “Scratch” Perryらの録音技師、プロデューサーが、既存のレゲエの録音を大胆に編集し直す方法を発展させた。ヴォーカルや楽器の一部を消し、ベースとドラムを前面へ出し、エコーやリヴァーブによって音を遠ざけたり、突然現れさせたりする。ここでは録音された作品が完成品ではなく、何度でも組み替えることのできる素材となった。

ダブの革命性は、音を重ねることだけでなく、音を取り除くことにあった。歌が消えた空間にベースが響き、ドラムが一瞬途切れることで、その後に戻ってくる拍動が強く感じられる。ミキシング・コンソールそのものが楽器となり、録音技師が演奏者の一人として音楽を作り替えていく。これはロックの演奏とは異なる方法で、音楽の時間と空間を構築する試みであった。

その発想を英国のパンクやポスト・パンク、インダストリアルへ広げた重要な存在が、エイドリアン・シャーウッドのOn-U Soundである。1981年から活動を本格化させたこのレーベルでは、New Age Steppers、African Head Charge、Dub Syndicate、Tackhead、Mark Stewart & Maffiaらが、ジャマイカ由来のダブを、英国の実験的なロックやファンク、ノイズと結びつけた。

シャーウッドはThe SlitsやCabaret Voltaire、Nine Inch Nailsなどの制作にも関わり、ダブを単なるレゲエの派生形ではなく、あらゆる音楽を分解し、別の音響へ作り替える方法として発展させた。ここでは演奏後のミキシング作業が、楽曲そのものを変形させる創造的な行為となっている。

音楽評論家サイモン・レイノルズは、英国のレイヴ、ジャングル、ドラムンベース、UKガラージ、グライム、ダブステップへと続く変化を「ハードコア・コンティニュアム」という連続性のなかで論じた。音楽の速度やジャンル名が変化しても、ジャマイカのサウンドシステム文化から受け継がれた低音への感覚、録音の編集、反復するビート、DJによる演奏が、その中心に存在していたのである。

●CCRUからHyperdubへ――ダンスフロアで思想が音になる

ニック・ランドが関わったCCRUと、英国のダブを発展させた音楽文化が交差する場所として重要なのが、Kode9ことスティーヴ・グッドマンが創設したレーベルHyperdubである。グッドマンは1990年代にウォーリック大学で哲学を学び、CCRUに関わりながら、ジャングル、UKガラージ、ダブステップなどの音楽に深い関心を寄せていた。

Hyperdubは2000年に音楽と思想を扱うウェブ・マガジンとして始まり、2004年にレコード・レーベルへと発展した。ランド本人が設立・運営したレーベルではないが、CCRUで共有された、技術、速度、未来、人間の身体という問題が、グッドマンの活動を通じて実際の音楽制作へと展開していく重要な場所となった。

ここで興味深いのは、Hyperdubが単純に高速な音楽を追究したわけではないことである。ジャングルの複雑なブレイクビーツやUKガラージの跳ねるリズムを受け継ぎながら、ダブステップでは拍と拍のあいだに大きな空間を作り、重い低音によって聴き手の身体を揺さぶる。速度を上げることだけが、音楽の強度を高める方法ではなくなったのである。

Hyperdubの最初期の作品として象徴的なのが、Kode9とThe Spaceapeによる「Sine of the Dub」である。この曲はPrinceの「Sign o' the Times」を素材としながら、原曲のファンクやポップスの構造を解体し、低音の脈動と加工された声、残響によって作り直した作品である。

ここに、フルカワユタカの音楽と比較するための興味深い接点がある。Princeのファンクを参照しながら、ギターのカッティングによって身体を踊らせるフルカワに対し、Kode9はPrinceの音楽から多くの要素を取り除き、低音と空間によって身体を揺さぶる。両者は同じファンクの身体性を、まったく異なる方法によって変形させているのである。

Hyperdubはその後、Burial、The Bug、Ikonika、Cooly G、DJ Rashad、Jessy Lanzaらの音楽を通じて、ダブステップからフットワーク、電子的なR&Bへと領域を広げた。グッドマンは2010年の著作「Sonic Warfare」で、低周波やリズムが人間の身体や感情に働きかける力を論じている。そこでは音楽は、耳で理解する以前に、振動として人間へ到達するものでもあった。

ランドの加速主義、CCRUの実験、Hyperdubの低音文化は、思想と音楽が単純な影響関係によって結ばれるものではないことを示している。思想が音楽を説明するだけでなく、音楽そのものが、思想のまだ捉えきれていない人間の経験を生み出していくのである。

●リチャード・ダイアー――踊る身体が、別の世界を発見する

ロックとダンス・ミュージックの関係を考えるうえで、英国の文化研究者リチャード・ダイアーが1979年に発表した「In Defence of Disco」が参考になる。ダイアーは、ディスコが商業的で表面的な娯楽として軽視されていた時代に、その身体的な快楽やロマンティシズムが持つ文化的な意味を論じた。

そこでは音楽の価値が、歌詞に込められた思想や演奏技術だけによって決まるわけではない。反復するリズムに身体を委ね、日常の役割や制約から一時的に離れることによって、普段とは異なる自分自身を経験する可能性がある。踊ることは現実からの逃避であると同時に、現実とは別の生き方を身体によって想像することでもある。

この視点から「無限大ダンスタイム」を考えると、その意味がいっそう明確になる。曲と曲のあいだの休止をなくし、30分以上にわたって観客の身体を動かし続けることによって、ライヴハウスやホールは、日常とは異なる時間を経験する場所になる。ここでの観客は、単にギタリストの技巧を鑑賞する存在ではない。演奏によって生み出された時間を、自分自身の身体によって引き受ける存在なのである。

一方、ランドが論じた加速するシステムの側から見れば、反復が人間を絶えず次の刺激へ駆り立てる構造にも注目できる。しかし、ダンスフロアの身体は機械の指示に従うだけではない。観客は同じビートのなかで、それぞれ異なる動きや感情を生み出している。

フルカワの音楽には、精密なビートによって演奏全体を組み立てる意志と、そのビートのなかで観客が予測できない反応を生み出すことへの期待がある。「無限大ダンスタイム」の伝説性は、演奏者が観客を完全に制御したことではなく、双方が同じ時間に巻き込まれ、その時間をさらに変化させていったことにあるのではないか。

●「I don't wanna dance」――過去のギターソロが、別の曲へ現れる

2012年のDOPING PANDA解散後、フルカワは2013年にソロアルバム「emotion」を発表し、2015年にはミニアルバム「I don't wanna dance」を制作した。このタイトルは興味深い。ダンス・ロックを追究してきたミュージシャンが、今度は「踊りたくない」と宣言しているように見えるからである。

しかし実際の作品は、ダンス・ミュージックを否定したものではなかった。「bounce」誌の鬼頭隆生は、同作を、DOPING PANDA以上にダンサブルな楽曲を含みながら、全体としては個人的な感情を強く打ち出したシンガー・ソングライターの作品として評している。フルカワ自身もART-SCHOOLの木下理樹との対談で、この題名について、当時の高速な四つ打ちの流行に対する軽い違和感もあったかもしれないと語っている。

さらに重要なのは、2016年に本人が連載「フルカワユタカはこう語った」で明かした、ギターソロをめぐる制作方法である。「I don't wanna dance」には、DOPING PANDA時代の「MIRACLE」で使用したギターソロが、そのまま組み込まれていたのである。このことについて過去の焼き直しという批判を受けたフルカワは、それを意図的な作曲方法として説明し、手塚治虫の「スター・システム」にたとえている。

手塚の漫画では、ある作品に登場した人物が、別の作品では異なる役柄を演じることがある。同じ顔を持つ登場人物であっても、物語の背景や人間関係が変われば、その人物は別の存在として機能する。フルカワは、ギターのフレーズについても同じことが可能だと考えたのである。

この説明は、今回の音楽論を考えるうえで極めて重要である。同じギターソロであっても、背後にあるビートや和音、曲全体の構成が変われば、そのフレーズが生み出す時間の感覚は変化する。過去の演奏が単に繰り返されるのではない。過去に存在した音が、別の関係へ置かれることによって、現在の作品の一部として再び現れるのである。

フルカワはこの方法を他の楽曲でも用いており、「I'll be there」の旋律を「call my name」へ転用したことなども明かしている。さらに「MIRACLE」そのものが、旋律を転用して二つの作品へ展開された例であった。2006年の「MIRACLE」と、2011年のアルバム「YELLOW FUNK」に収録された「the miracle」には、共通する旋律と言葉が用いられながら、異なる表現が与えられている。

ここでダブの方法論が思い起こされる。King Tubbyが既存の録音から音を取り除き、別の空間へ置き直したように、フルカワも過去の音型を新しい楽曲の内部へ移し替え、その意味を変化させている。両者は同じ制作方法ではないが、完成した作品を固定されたものとして扱わず、音を再配置することで新たな表現を生み出すという点で共通している。

●「無限大ダンスタイム」は、解散後も終わらなかった

さらに興味深いのは、「無限大ダンスタイム」が2012年のDOPING PANDA解散によって終わらなかったことである。2015年5月、フルカワは渋谷WWWで、ソロとして初の東京ワンマン公演「無限大ダンスタイム 2015」を開催した。村田シゲ、新井弘毅、カディオらをサポートに迎え、かつてのDOPING PANDAの代表曲を、新しい演奏者との関係のなかで蘇らせようとしたのである。

2017年には下北沢SHELTERで三日間の公演を開催し、最終日を「無限大ダンスタイム '17」とした。この日のライヴでは、「I don't wanna dance」からギターを中心としたインストゥルメンタル曲「fusion」を経て、かつてのDOPING PANDAの楽曲が次々と演奏された。「YA-YA」「The Fire」「Hi-Fi」「beautiful survivor」「Transient Happiness」などが連続し、最後には「MIRACLE」が登場した。

ここで重要なのは、ソロ活動によってダンス・ロックから離れたのではなく、その音楽を必要なときに別の形で呼び戻していることである。新しい作品に過去のギターソロを登場させたように、フルカワは自らの音楽史そのものを、現在の舞台へ再配置していたのである。

そして2022年、DOPING PANDAの再結成ツアー「∞ THE REUNION TOUR」でも、この構成は再び演奏された。「The Fire」「Hi-Fi」といった過去の楽曲に、再結成後の新曲「Imagine」も加わり、最後は「MIRACLE」と「Silhouette」で締めくくられた。かつての楽曲だけを並べた懐古的な時間ではなく、過去と現在のDOPING PANDAが同じ流れのなかで演奏されたのである。

音楽史のなかには、人気曲を再演することで過去の興奮を再現しようとするライヴが数多く存在する。しかし「無限大ダンスタイム」の変遷を見ると、フルカワは同じ構成を繰り返しながら、その内部へ新しい楽曲や演奏者を持ち込んできたことが分かる。

同じ名前を持つライヴであっても、そこに参加する人間も、演奏される楽曲も、そして観客が生きてきた時間も変化している。「無限大」という名称は、終わることのない興奮だけではなく、過去の音楽を何度でも現在へ呼び戻すことのできる、開かれた時間を象徴しているように思われる。

●「僕はギタリストだ」――音を減らすことで現れたもの

2015年、フルカワは自身の連載で「僕はギタリストだ」と繰り返し語っている。作曲家であり、編曲家であり、ヴォーカリストであり、録音まで手掛けるようになっても、自分の中心にあるのはギターだというのである。

この文章で興味深いのは、彼がギターを単なる技巧のための楽器として捉えていない点である。弦の跳ね返りを感じるために比較的高い弦高を好み、歪みに頼らず、倍音を豊かに含む音を求める。そして最終的には、言葉を話すようにギターを弾きたいという理想を語っている。

これは、フルカワのダンス・ロックを理解するうえでも重要な証言である。ギターの高速なカッティングやリフは、単なる技巧の展示ではない。音の立ち上がり、持続、切断、次の音へ移る瞬間を、自分の身体によって制御する行為でもある。

ここでダブの歴史が、思いがけない比較対象となる。King TubbyやKode9が、録音から音を取り除くことで新しい空間を作り出したように、ギターの演奏でも、何を鳴らさないかという選択が重要となる。音と音のあいだに生まれる隙間は、単なる空白ではない。次の音を予期させ、すでに鳴った音の余韻を変化させる、積極的な時間なのである。

バンドでは、ギターがベースやドラム、電子音と結びつき、強い拍動を作り出してきた。しかし弾き語りでは、同じギターがリズムの骨格と和音、旋律の余韻までを一人で担うことになる。多くの楽器が重なるときには全体の音圧によって強度を生み出せるが、一人のギターと声では、音を鳴らす瞬間だけでなく、次の音が現れるまでの時間そのものが重要になる。

フルカワが求めてきた「喋るように弾く」という理想は、この形式において、より直接的な問題として現れるのである。

●再結成とは、失われた時間を取り戻すことなのか

2022年、DOPING PANDAは解散から10年を経て再結成した。その際、フルカワは公式コメントで、かつて失った未来とは異なる場所へ向かうことになると述べている。ここには、再結成を単なる過去への回帰として捉えない姿勢が現れている。

実際、2013年以降のソロ活動は、決してDOPING PANDAの休止期間を埋めるためだけのものではなかった。Base Ball Bearのサポートギタリストとして演奏し、the band apartやLOW IQ 01らと活動を重ね、他のミュージシャンとの関係のなかで、自らの演奏を客観的に捉え直してきた。

2017年のインタビューでは、Base Ball Bearとの演奏を通じて、バンドの面白さを改めて認識すると同時に、自分はソロアーティストなのだという自覚も深まったと語っている。バンドから離れたことで、バンドという形式の意味を改めて発見したのである。

さらに2020年、コロナ禍によって予定していた全国47都道府県ツアーが困難になるなか、オンラインでの活動を続け、毎月新しい楽曲を制作する経験を重ねた。その蓄積が、2022年のDOPING PANDAの新作制作にもつながったと本人は述べている。

ここでは過去が保存されていたのではない。離れていた時間に獲得した技術や経験が、再び三人の演奏へ持ち込まれたのである。2022年のアルバム「Doping Panda」と2023年のEP「High Hopes」は、かつての人気曲を再現するだけでなく、異なる10年間を生きた三人が、新たなバンドとして音を作り直す試みとなった。

●「絶景」――喪失のあとに、何が見えてくるのか

2026年8月に発表された6枚目のソロアルバム「絶景」は、こうした活動の蓄積を踏まえて考えるべき作品である。フルカワ自身がギター、ベース、プログラミングなどの演奏から録音までを広く担当し、ドラムには久保貴寛が参加している。

ここで注目したいのは、ギターによるロックの強度を保ちながら、楽曲が人生の喪失、希望、再生へと向かっていることである。「絶景」「永愛」「斜陽より」「この幸福に僕は名前をつけた」「君想う故に僕あり」といった題名からも、以前のダンス・ロックとは異なる時間への関心が読み取れる。

特に「永愛」は、何気ない日常の記憶と、忘れたくない愛情を題材とした楽曲として紹介されている。ここには、かつて身体を動かすことで現在の興奮を生み出していた音楽が、失われた時間や、すでに過ぎ去った経験へも視線を向け始めたことがうかがえる。

また、「ソロウフェロウ」にはthe band apartの荒井岳史とASPARAGUSの渡邊忍、「TORAYNSE」には髭の須藤寿が参加している。自ら多くの楽器を演奏して作品を完成させる一方で、長年活動を重ねてきた音楽家の声を作品へ迎えている。そこには、一人で音楽を構築する技術と、他者の演奏によって予想外の変化が生まれる可能性の両方が存在している。

「絶景」という題名も興味深い。絶景とは、単に美しい風景を意味するだけではない。ある場所に立ち、そこへ至るまでの時間を振り返ったとき、初めて見えてくるものでもある。DOPING PANDAの解散、ソロ活動、再結成を経て、フルカワが現在立っている場所。その時間の厚みを、この題名は象徴しているように思われる。

●ハルトムート・ローザ――加速のなかで、共鳴は可能なのか

ここで、ニック・ランドの加速主義とは異なる方向から現代の速度を問い直した、社会学者ハルトムート・ローザの思想が重要になる。ローザは、現代社会が効率化と加速によって世界を制御しようとする一方、人間が世界との生きた関係を失っていく問題を論じてきた。

ランドが技術と資本の自律的な加速に着目したのに対し、ローザは、その加速する社会のなかで人間が世界とどのような関係を結べるのかを問うた。ローザのいう「共鳴」とは、単に気持ちのよい音が響くことでも、他者と同じ感情になることでもない。自分の外側にある何かに呼びかけられ、それに応答することで、自分自身も変化する経験である。

音楽は、この問題を考えるための重要な対象となる。録音技術や電子楽器によって、音程、音色、リズム、音量を精密に設計することはできる。しかし、実際に演奏された音が聴き手に何を引き起こすのか、その経験のすべてを演奏者が決定できるわけではない。正確に演奏された音が誰にも届かないこともあれば、偶然の揺らぎが忘れられない体験を生み出すこともある。

ここで「無限大ダンスタイム」が、もう一度重要になる。30分以上にわたって音楽の流れが維持されることは、演奏者の構想によって可能となる。しかし、その時間が観客にとって忘れられない経験になるかどうかは、演奏技術だけでは決定できない。2008年のJCBホールで生まれた熱狂も、三人の演奏と観客の反応が互いを変化させたことによって成立したのである。

一方、弾き語りでは、ギターの一音と声の抑揚が、聴き手の経験によって異なる意味を持つ。音の数が少ないからといって、そこに生まれる関係まで小さくなるわけではない。ダブが低音と残響によって空間を変化させたように、一人の演奏者も、音を鳴らすことと止めることによって、聴き手の時間感覚を変えることができる。

ランドとローザの思想を、単純に加速と減速という対立へ置き換えることはできない。ローザ自身も、速度が遅ければよいと論じているわけではない。問題は、加速によって世界との関係が豊かになるのか、それとも世界が応答しないものになってしまうのかという点にある。

フルカワが長年追究してきたギターの表現も、単なる技術の完成だけを目指しているのではないだろう。自分の身体によって音を制御しながら、その音が自分の予想を越えて誰かへ届くこと。その両方を求めるところに、ロックスターとしての演奏と弾き語りの表現が結びつくのである。

●音楽は、過去を保存するためにあるのではない

フルカワユタカの歩みを振り返ると、そこには一貫した変化がある。メロディック・パンクから出発し、ギターによるダンス・ロックを発展させ、ソロ活動では個人的な感情や旋律を前面へ出してきた。そしてDOPING PANDAの再結成を経て、現在はバンドとソロの双方で音楽を追究している。

しかし、フルカワユタカは単にダンス・ロックの変遷を体現してきた音楽家ではない。「機械的に構築される時間」と「人間が経験する時間」の関係を、ギターという楽器を通して追究してきた音楽家なのである。精密に反復するビートのなかへ生身の演奏を持ち込み、音を鳴らす瞬間と、鳴らさずに残す時間の両方によって、音楽の強度を変化させてきた。

「MIRACLE」と「無限大ダンスタイム」の歴史を辿ることで、そのことが具体的な演奏のなかに現れていることが分かる。2006年の「MIRACLE」は、ギター・ロックをクラブ・ミュージックへ接続した。そして2008年の「無限大ダンスタイム」では、複数の楽曲が連続することによって、ロックの一曲ごとの時間が解体された。さらにソロ活動では、過去のギターソロを別の楽曲に登場させ、その響きの意味を変化させている。

ここに、ニック・ランドの加速主義からCCRU、Hyperdubへと続く音楽と思想の関係とも接続する、興味深い方法がある。電子音楽は速度を高めることによって新しい身体感覚を生み出してきたが、ダブのように音を削ることによって、それまで存在しなかった時間と空間も作り出してきた。加速と間引きは、必ずしも対立するものではない。

フルカワの音楽も同様である。ギターによって絶え間なく身体を動かす時間を作り出すこともあれば、弾き語りによって、一つの音が消えたあとに残る余韻を聴かせることもある。さらに、かつて演奏したフレーズを別の曲に組み込むことで、過去の音が現在のなかで新しい意味を獲得する。そのような方法を通じて、音楽は完成された作品という固定した存在から、何度でも作り直すことのできる表現へと変化していく。

重要なのは、それが過去の活動を否定することによって起こったわけではない点である。パンクの速度、ハードロックの技巧、ファンクの身体性、電子音楽の構築性、ポップスの旋律。これらは、その時代ごとに異なる形で現れながら、現在のフルカワの音楽にも受け継がれている。

今回のPEPPERLAND公演が弾き語りという形式で行われることにも、そうした変化を考える意味がある。バンドで築いてきた音楽を単純に縮小するのではなく、ギターと声によって楽曲の別の輪郭を浮かび上がらせるからだ。そこで重要になるのは、単に速く弾くことでも、音を少なくすることでもない。一つの音が鳴り、次の音が現れるまでに、何を聴き手へ伝えられるかという問題である。

そして現在でも、フルカワのソロに耳を傾けるとき、かつて「無限大ダンスタイム」でロックが一曲ごとの枠から解き放たれ、会場全体が一つの巨大な拍動となった体験を、聴き手は思い出しているのではないだろうか。あのとき身体を突き動かしたギターの響きは、現在の弾き語りのなかにも別の姿で生きている。激しいビートが失われても、その音楽によって経験した時間までが消え去るわけではない。むしろ、かつて聴いた音が現在の演奏と重なり合うことで、目の前の音楽は新たな奥行きを獲得するのである。

ここでハルトムート・ローザの「共鳴」という思想が、いっそう具体的な意味を持ってくる。かつての演奏が聴き手の身体に刻み込まれ、その記憶が現在の音楽によって呼び覚まされるとき、過去と現在は単なる時間の前後関係ではなくなる。音楽を聴くことは、目の前で鳴っている音だけを受け取ることではない。過去に経験した音楽が、現在の響きによって再び動き始めることでもある。

ランドが見つめた技術と資本の加速は、人間の意思を越えて進行する世界の姿を示した。一方、ローザが論じた共鳴は、その世界のなかで、人間が自分の外部にあるものとどのように関係を結び直すことができるのかを問うている。フルカワにとってギターは、ロックスターとして自分を表現するための楽器であると同時に、長い時間を経て、自分自身と聴き手の経験を結び直す楽器にもなっている。

「絶景」とは、過去の栄光を振り返る場所ではない。これまでとは違う風景が見え始めた、現在の立ち位置なのである。

かつて「無限大ダンスタイム」で観客の身体を突き動かしたギターが、いま、その一音によって過去と現在を結び直している。加速する時間を生み出すことも、時間を止めるかのような余韻を残すことも、同じギターの演奏によって可能になる。

フルカワユタカの音楽は、機械的に構築された時間を生身の身体によって引き受け、さらにその時間を別の経験へと作り替えていくものである。「MIRACLE」はその出発点の一つであり、「無限大ダンスタイム」はそれを観客とともに実現した場所であった。

加速する世界を、ギターで弾き直すこと。それは、かつてロックから解き放たれた時間を、聴き手の記憶のなかでもう一度鳴り響かせ、まだ存在していなかった現在を生み出すことなのである。

(文中敬称略・2026.10.30)